創始者ブログ FOUNDER'S BLOG

相談役 大坪久泰
創始者 大坪 久泰

自分の意見を堂々と言える、答えのない課題に答えを導き出す情熱と勇気をもつ、
先の見えない時代に求められる人材を育てる大学です。
国際社会そして教育界に貢献したい、熱い思いと高い志をもつ方を歓迎します。

2019.09.18

高等教育での語学教育(6)

 引き続きIDE現代の高等教育 No.611 2019年6月号の特集「語学教育再考」に寄稿された方々の寄稿文の要約を私の所感を交えながら紹介します。

雑感―外国語系の大学の未来と「世界教養」(亀山郁夫 名古屋外国語大学 学長/ロシア文学・ロシア文化論)

 亀山郁夫氏は東京外国語大学学長に引き続いて長い間、学長職にありながらドストエフスキーの長編小説「カラマーゾフの兄弟」などを翻訳されるなど、ロシア文学、ロシア文化論の著名な方です。この寄稿文は亀山氏の雑感ですから著者の主張をなるべく原文から抜粋するようにします。

1.英語と「外国語」の相克

・自動翻訳機械が今後飛躍的進化を遂げていったら外国語系の大学での外国語を学ぶ意味はなくなるのではないか? この質問に対し、「まさか」と「確かに」という二つの答えが頭の中を交錯する。
・それは、グローバル化とAIの進化がもたらすイメージのきわどさと、外国語系大学に対するイメージの乏しさが垣間見えるからである。外国語系大学は外国語の専門学校ではないし、学びの態様は変化し、進化している。
・明治以来、外国語教育を含む教養教育には、人格育成という問題を第一義的なものとして、実益とは一線を画すかたちで特権的な意味づけが行われてきた。
・しかし、バブル経済とともに始まる平成の30年間を通して、高等教育はおおむね教養教育、外国語教育に対してネガティブな態度をとり続けてきた。ただ英語のみが実益と結びつく地球レベルの共通語としての優位性を保ってきた。
・私たちに残されている第一の仕事は、学生のモチベーションを上げるための徹底した努力で、外国語を学ぶことの意味と楽しさを学生の意識に浸透させなければならない。AI神話に描かれる過剰なオプティミズムに惑わされない批判的思考力も大切である。

2.「英語」から「英知」へ

・外国語大学で世界の多元性に立脚した教養を幅広く培う必要性を痛感し、「世界教養プログラム」という教養教育プログラムを東京外国語大学で編み出した。
・今後、地球レベルの問題を解決するために必要とされるのは英知であって英語ではない(この言葉は内田樹氏がウェブ上で書いたものの引用です。英語で発言できる人間以外に参加資格を認めないのならば、英語を母語とする話者に国際社会でのデシジョン・メーカーとしての圧倒的なアドヴァンテージを認めることになるというものです)。
・英語一元化は世界的レベルでの知性の劣化をもたらす恐れがある。

3.「世界教養」と成熟日本

・教養教育のためのカリキュラム構築にあたって、特にこだわりを持ったのは「世界」という概念である。
・世界教養(World Liberal Arts)とは世界の諸地域への想像力や共感力を土台とした教養知の体系をいう。
・いわゆる国際教養(International Liberal Arts)とは一線を画している。国際教養の手法が、基本的には英語をコミュニケーション・ツールとして世界の多様性にアプローチする学びであるなら、世界教養は地域言語+英語という複数の言語によって世界諸地域の文化、社会、歴史を個別的に学ぶ方向性を志向する。これこそが21世紀における外国学(foreign studies)のあるべき姿である。
・しかし、実際には方法的にも理念的にも変えることは何もない。東京外国語大学のような国立大学は多言語の可能性を追求し、突き進めばよい。国家間レベルの通訳から、空港のグランドスタッフに至るまで外国語の使用は多種多様であるが、言語は発語された瞬間にそのニュアンスが多用な広がりをもつ。要するにプロフェッショナルな言語運用能力と異文化理解への力を持った人材を育てねばならない。
・外国語系の私立大学は英語以外のグローバル言語も十分学べる環境を整えるべきである。そのためには名古屋外国語大学が行っているように非英語圏(ヨーロッパ、中国)の大学で、優れた英語教育プログラムをもつ大学との交流協定を開拓して学生を送り出すことである。
・人生百年時代の生き方として、ウェブやYou Tubeを存分に利用することが必要である。しかし、そこには現段階では字幕はないので、世界の文化についての知識がなければ、そのコンテンツにアクセスすることができない。学生たちは外国語を学ぶ前に自国も含む世界の文化についての教養を蓄積する必要がある。そうすれば世界から尊敬を受ける成熟日本になることができる。

 前文にも書きましたように、今年のIDE(現代の高等教育)6月号No.611に寄稿された各大学の主要な方々の語学教育に対する見解を紹介しました。紹介したものの他にも数件の寄稿文がありますが、あまり参考にはならないと考えて勝手ながら割愛しました。紹介した寄稿文に書かれていたことで、いくつかの気になる記述がありますので、私の見解を述べておきます。
 先ず、桜美林大学の佐藤氏が元慶應義塾大学塾長の安西氏のIDE寄稿文を引用して、語学教育の枠だけでは収まり切れない教育・学習活動の変容について大きな目で見た熟慮が求められる時代のようであると述べられたことには、大きい意味があると思いました。本学でも国際リベラル・アーツ教育で、このような考えで教育を進めていますが、このような考えの一層の充実を図らねばならないと感じました。
 次に英語教育の大家であり、文部科学省の学習指導要領にも影響力を持っておられる上智大学の吉田研作氏が今後のグローバル社会を生き抜くには、英語だけでは難しいだろう。特に、アジアの一員としての日本人は、アジアの他に言語を学ぶ必要がある。そして、ネルソン・マンデラ氏の言葉を引用して、 
“If you talk to a man in a language he understands, that goes to his head. If you talk to him in his language, that goes to his heart.” (もし、ある人に彼が理解する言葉で話せば、頭で理解するだろう。もし、ある人に彼が使う言葉で話せば、心に響くだろう)。「心と心のコュニケーション」ができるようになる必要がある。と述べておられることには心より賛同いたします。名古屋外国語学長の亀井氏の提案のように、本学ではしっかりした英語教育プログラムをもっているアジア諸国の大学と既に留学生の交換などを行っています。
 中部大学の石井氏の見解には賛同するところが大きいと思いました。特に、「リベラル・アーツとは本来、人間を種々の拘束や強制から解き放って自由にするための知識や技能を意味する概念である」という考えは宮崎国際大学設立の主旨ですから、本学は早くからこの考えで教育を行ってきました。石井氏の多言語を学ぶべきであるという考えは大変もっともであると思いますが、大学4年間で124単位取得という縛りの中では外国語履修を2言語以上にすることは極めて困難です。日本語の徹底した履修も大きな課題ですから、第2外国語までが限界ではないかと思います。第2外国語も初歩の段階にとどまらざるを得ないように思います。問題は学生が多言語習得の意義をどれだけ理解するかということではないでしょうか。
 AIの進歩によって優れた自動翻訳機が実現されるので、外国語習得は不必要になるのではないかという話題が出てきましたが、私は極めて実用的で便利な翻訳機は実現できたとしても、文学的表現にとどまらない深い理解が得られる自動翻訳はできないと思います。言葉は文化の深淵に関わるものだからです。
 今回のIDEの特集を読んで、気になったのは、どの方も日本語再教育には触れておられないことです。数学教育と同様に、日本語教育も大きな問題です。言葉の運用能力を育てることは、寄稿された方全員が述べられた教養教育の基本だからです。本学は正しい優れた道を歩いているし、また、歩んできたという自信を一段と深めました。