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2019.08.19

高等教育での語学教育(3)

 引き続きIDE現代の高等教育 No.611 2019年6月号の特集「語学教育再考」に寄稿された方々の寄稿文の要約を私の所感を交えながら紹介します。

リベラルアーツとしての語学教育(石井洋二郎 中部大学教授・東京大学名誉教授/フランス文学)

 石井洋二郎氏はフランス文学者として著名な方です。ネットで調べると19世紀の詩人ロートレアモンの専門家ということですが、私が存じ上げているのは、社会学者ピエール・ブルデューを紹介され、ハビトゥスhabitusの概念を導入された教養人というか、教養教育者としての石井氏です。

 ハビトゥスは哲学的な難解な術語ですが、平たく言うと、教育の面では人は環境によって育つと言ってよいほど、周囲の状況に影響されるということだと解釈できます。人間は周辺に知的な環境(知識を求める人たちが周りにいて、図書なども自由に利用できる知的な環境が整っている)や文化的環境(音楽・美術・演劇などの実行・鑑賞・接触ができる)があることによって知的・文化的に育つという考えだと思います。

 さて本文です。

・「グローバル人材」の養成が国家的課題になり、国際舞台で通用する英語力がその必須条件の一つであることが共通認識になっている。英語以外の外国語を大学で学ぶ必要があるのか。英語力の養成に力を注ぐべきで、それ以外の外国語は二の次ではないか。

・これに対し、フランス語の担当教員として著者の唱えてきた反論は、「使用言語が違えば、同じ対象であっても、その見方、把握の仕方が当然違ってくる。私たちはあくまでも言葉を通して世界を秩序立て、構造化し、認識しているからである。世界には言葉の数だけ世界の見方のパターンがあり、集合的な世界観がある。外国語を学ぶということは自分とは異なる世界観を学ぶことであり、そうした世界観に触れることによって、今ある自分の世界観と対比化することにほかならない」。

・つまり、一つしか外国語を知らなければ自分を相対化する線は1本しか引けないが、もうひとつ別の外国語を勉強すると、線は一気に3本に増える。たとえば英語とフランス語とを知っていると、日本語と英語、日本語とフランス語のほかにもう1本、英語とフランス語のあいだにも、比較のための補助線を引くことができる。これは単にもう1か国語やったらコミュニケーションツールが一つ増えたという「足し算」ではない。思考の地平が飛躍的に拡大するので、「次元が変わる」のである。

・この見解は今でも有効性を失っていないが、「英語一辺倒」の風は、こんな抵抗言説も軽々と吹き飛ばしてしまいかねない勢いである。

・バベルの塔が挫折(人類が天に達するほどの高塔を建てようとしたのを神が怒り、それまで一つだった人間の言葉を混乱させて互いに通じないようにしたという旧約聖書、創世記にある伝説)したからこそ、私たちは意思疎通の困難さという代償と引き換えに自分と異なる風習や思想や信仰をもつ人々の存在に触れ、自らとの差異に驚き、率直に感動することができるようになった。そして異文化へのあこがれや敬意を抱き、もっと世界のことを知りたいという欲望をもつことができるようになった。

・もし、英語の代わりに日本語が世界共通語だったらと仮定してみると、世界中どこに行っても困ることはないだろうし、海外で仕事をする上でもずいぶん楽ができるだろう。しかし、その状態で外国語を学ばなければ、他の言語を母語としながら日本語を学んだ人々と対等に渡り合えるだけの視野の広がりや思考の深まりを獲得することはできない。これは言葉というものが単なるコミュニケーションツールではなく、人間の思考や感性そのものを支える根源的な要素であること、さらにいえば思考や感性そのものであることを意味している。

 話題が少し変わって、

・リベラルアーツとは本来、人間を種々の拘束や強制から解き放って自由にするための知識や技能を意味する概念である。(石井洋二郎「大人になるためのリベラルアーツ」東京大学出版会 2016年)。ここにいう種々の拘束や強制とは、「知識の限界」「経験の限界」「思考の限界」「視野の限界」であるが、「知識の限界」は外国語で書かれた文章を理解できないという意味で「知識の限界」に囚われている。外国人と会話することができないと意味で「経験の限界」に囚われている。外国語による考え方の筋道が理解できないという意味で「思考の限界」に囚われている。外国人の世界観が目に入らないという意味で「視野の限界」に囚われている。だから外国語を学ぶということは、これらの限界を打ち破り、言葉本来の意味における自由を獲得するための必須の手段である。外国語学習を通して学生を様々な限界から解放する教育である。 

・実際問題としては、英語だけでも手一杯の学生たちに過重な負担を強いることはできないが、負担をかけない形で別の外国語の初歩だけでも学ぶ機会を提供できれば、「思考の限界」や「視野の限界」から学生たちを解き放つ力は何倍にも増すに違いない。

 話題が少し変わりますが、著者は不毛な二項対立として「実用英語」と「教養英語」の議論に触れています。

・「読む」のが教養英語、「話す」のが実用英語と言う訳です。俗にいう4技能(読む、聞く、書く、話す)はそれぞれ独立して機能するものではない。「実用英語」と「教養英語」の2分割自体が意味のない図式である。そうした区別があるかのように思い込んで両者を切り分けてしまう発想は危険である。AIのめざましい進歩によって、日常会話レベルの英語が自動翻訳にとってかわられる日はさほど遠くない。純粋なコミュニケーションツールとしての外国語を修得する必要性は加速度的に失われていくのかもしれない。

・人間でなければできない言語活動はいかなるものであるか、という本質的な問いがやがて浮上してくるのは必然だろう。

・そうした知の地平を切り拓く「リベラルアーツとしての語学教育」を実践することこそが、これからの大学に求められているのではなかろうか。

 以上は石井氏が寄稿された文章の要旨ですが、私も大学教育で第2外国語教育としてドイツ語を学び、その後必要に迫られてフランス語を学びました。自分自身の経験に照らして、石井氏の主張を考えてみたいと思っています。