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2016.12.05

谷崎潤一郎「文章読本抄」

 皆が働いているウィークデイの朝から小説を読んでいるのは、何となく後ろめたい気持ちがするものです。気楽な遊びという気持ちがあるのと、どんなものを読んでいるのかを他人には知られたくないという気持ちがあるからです。この様な気持ちを持っているのは作者に少々失礼かと思っていたのですが、谷崎潤一郎の「文章読本抄」を読み直し、作家の文章に対する真摯な取り組みや文章に対する明晰な知見を知り、胸を張って、文学作品をじっくり鑑賞することにしました。大正9年(1920年)に書かれたこの「文章読本抄」は100年近く経過した現在でも立派に通用する卓見です。この文章論を読むと、文豪谷崎潤一郎は英文学にも通じた人であることが分かります。つまり、比較文学者とも言える作家です。言語教育を重視する本学の教育方針にも沿うことですから、以下にこの文章論を読んで印象深く感じたことを述べます。


 


 まず言語について、言語は思想を伝達する機関であると同時に、思想に一つの形態を与える、まとまりをつけるという働きがあると定義していますが、思想を一定の型に入れてしまうという欠点があると釘を刺しています。つまり、言語は万能ではなく、その働きは不自由であり、時には有害なものであるとしています。この論は唐突のようですが思い当たることもあります。確かに有害な場合があります。でも、ここまで言う人はあまりいません。


 


 私たちは文学的表現と言いますが、谷崎はきっぱりと文章には実用的と芸術的との区別はないと断じています。これは意外でした。そして、現代の文章は分からせるように書くことで手一杯だと断じています。手一杯ということは、私は、美しいとか、余韻があるとかそういうことまでは手が及ばないという意味かと想像しているところです。努力しないで良いということではないでしょう。


 


 それでも、谷崎は書くときは古典文の精神に還り、表現できることと、できないことの限界に留まれと言います。また、読む人は黙読するにしても自分では声にして読んでいるのだから、音楽的効果も考えて書くように、そして、視覚的効果も配慮せよとのことです。そのためには、文章が見た目に美しくなるように心がけ、文章をつづる場合に先ず文句を実際に声に出して読み、それがすらすら言えるかどうかを試してみることが必要であるとのことです。また、文章は真に「分からせるように」書くためには「記憶させるように」書くことが必要であるとも述べています。つまり、感覚的な要素である字面と音調が重要ということです。名文の例として志賀直哉の「城の崎にて」を取り上げて細かく分析しています。なるほどと思います。


 


 次は外国語との比較です。谷崎によれば、日本語の欠点の一つは語彙が少ないことであると述べています。これは私の思ってもみないことでした。確かに日本語の由来は漢語に始まり、象形文字を使うことなどによって語彙を少なくしている出自があるのですが、文化的にも語彙が乏しくなる原因があります。孔子の言葉どおり、「巧言令色」を軽蔑する文化があります。つまり、おしゃべりは慎むべきこととしてきましたし、能弁を嘘つきと同義にさえしてきました。口が達者であることを決してよくは言わなかったのです。谷崎はそれが語彙を乏しくした原因の一つとしています。また、日本語は構造的にも不完全なところがあるとしています。主語のない文章が日本文では成り立つのですから、谷崎の主張は尤もだと思いました。


 


 谷崎は西洋の文章(例として英語を取り上げている)と日本の文章について、言語学的に全く系統を異にする2つの国の文章の間には、永久に超えられない垣があると述べています。これは、以前このブログで取り上げた「言葉の課題」に述べたことです。谷崎はいくつかの英語の例文を示し、それらをどのように訳すかを例示しています。谷崎が並々ならぬ英語力の持ち主であることがよく分かります。


 


 結論として谷崎が主張したいのは、日本語の語彙の少なさを補うために外来語を使うのは良いが多用は禁物で、冗長にならないようにしたいものだということのようです。しかし、最後に語彙が貧弱で構造が不完全な国語(日本語)には、一方においてその欠陥を補うに足る十分な長所があることを知り、それを生かすようにしなければなりません。と述べています。


 


 私自身、日本語を十分知っているかどうか大いに反省するところです。