創始者ブログ FOUNDER'S BLOG

2017.01.12

リベラル・アーツか専門か?   (2)

 前回に続いて「池上彰の教養のススメ」について紹介します。


 


 今回は教養とは何かについて東京工業大学リベラルアーツセンターの3人の教授が鼎談(ていだん)を行った内容の要約です。登場するのは前回の池上先生、センター長の桑子敏雄先生、それに上田紀行先生です。桑子先生は哲学者で、次回のブログで紹介しますが社会的合意形成の技法を研究されています。上田先生は文化人類学者で宗教にかかわる問題を研究されています。本の要約にあたって、発言者は相互に話し合った内容について合意されているようですから、個人名を特定しないで共通意見という形で述べます。前回同様に私の意見や解説を織り交ぜてまとめることにします。


 


 その前に話題が少し脱線しますが、今から25年近く前、つまり宮崎国際大学の設立準備をしていた頃、文部科学省の大学審議会は「大学に教養教育はいらないのではないか? むしろ専門教育や大学院を重点化すべきではないか」という方針を打ち出しました。つまり、大学教育課程の大綱化です。それ以来、各大学では実学(私は実用学だと思いますが)ということを盛んに喧伝するようになりました。本学はこのような風潮とは反対にリベラル・アーツ大学として社会的逆風の中で平成6年4月に設立されました。


 


 この本にも書かれているのですが、その後平成7年3月にオウム真理教信者による地下鉄サリン事件があり、一流大学の理科系出身者がこのオカルト宗教に入信していることが分かり、教養教育はやはり大切なのだ、大学の教養教育は見直さなければならないという意見も出始めました。


 


 最近では教養という言葉自体があまり使われなくなっています。しかし、3人の先生たちは、若し他人から教養がないと言われたら、まして男性が女性に言われた場合は・・・と冗談交じりで、人格まで否定されたような屈辱感を持つと話しています。そのように思えるのは、おそらく、教養がないということは品性を含めた基本的な知的水準が低いということを意味するからではないかと私は思います。 3人の先生たちは「教養」を学ぶ時間をどんどん削って専門科目だけを徹底的に習得させると、学生は「できる人間」になる。でもこのできる人間は決められた枠組みの中で、できる人間であって、新しいアイデアを出すことのできない「使えない人間」になっていくというのです。


 


 本では、その典型的な例として3・11で明らかになった原子力発電の問題を挙げています。要するに優先すべきは経済合理性なのか安全性なのか。原発の技術開発をどう考えていくか、さまざまな選択肢の中で何を決めていくか。理系の専門知識だけでも、文系の経済知識だけでも、解は出てきません。つまり、既存の枠組みを一歩も二歩も踏み出さなければ対応できないということです。私も全く同感で、このような「解なき時代」に必要なものは何か。それが教養なのです。このことは3・11だけではなく、現代のあらゆる課題について言えるのではないかと思います。ですから、前回本の冒頭にまとめられたことを紹介したように、物事の前提から疑ってかかれる能力、新たに条件を創る、つまりルールを創る能力やあらゆる変化に対応するための能力、すなわち教養が必要になるということです。もう一つ重要な能力としてコミュニケーション能力のことが強調されています。ここで具体的な説明は省略しますが、男子にとって女子とのコミュニケーションが円滑にいくかどうかは極めて重要であることが述べられています。それも教養なのです。一般的に言って男子は「正しい答え」にこだわり、女子は「現実的な解」を求める傾向があるということです。男子は正解を求めることが自己目的化することが多いという前提から話が展開しています。


 


 3人の先生たちの中で、教養には4C必要だということが話し合われています。第1はコミュニケーションcommunication、例えば「僕は意見を持っていますが、言わないだけです」というのは駄目だということです。第2はコミットメントcommitmentです。「僕は、状況分析はできるけど、その現状にはかかわりません。」という批評家的なスタンスは駄目だということです。第3はクリエイションcreation、つまり何かを生み出していく力です。第4はケアcareです。色々と心配することです。これは女性の本能的な特質ではないかと思われます。上述の4つのCをまとめると、・伝える ・かかわる ・生み出す ・世話する ということになろうかと思います。 本の中にもありますが、リベラル・アーツのリベラルは自由ということですから、与えられた問題の解を出すのではなく、自ら自由に問題を設定し、新しい解を探していくということになります。つまり、これは「モノ知り」なだけでは駄目なのであって、人間の生き方なのです。実際、東京工業大学だけではなく本学で行っているように、人文科学系、社会科学系という学問上の区別を超えて、人間性と社会性をどう高め、養うかに取り組むということなのでしょう。それが本学の建学の精神「礼節・勤労」にも合致していると思います。教養を得るとは究極的には自由を獲得することであり、それはすなわち自らの意志で社会にかかわっていくということになります。従来の「教養」のイメージとは違います。大正・昭和の時代に「教養がある」というのは、たくさん本を読んで、ものをよく知っている人を指しましたが、今の時代はコミットcommitしたり、エンゲージengageしたり、さまざまな実践能力を兼ね備えないと、教養があるとは言えないということに改めて納得しているところです。


 


 以上が前述の3人の先生たちの対話に私の考えや説明を加えた要約です。