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2017.10.05

文章読本(その2)丸谷才一(2)

 前回に引き続き、「第6章言葉の綾」から丸谷才一の文章論を整理して紹介します。

 丸谷の叙述を紹介する前に、この章の標題「言葉の綾」は辞書にどのように説明されているか調べてみました。手近にある電子辞書(広辞苑)には「巧みな言い方」とあります。この説明では物足りないので、講談社「日本語大辞典」をみましたら、「言葉の上の巧みな表現、とくに、受け取りようによって、幾通りにも解釈されるような言い回し。figure of speech」とありました。figureは形ですから「言葉の形」ということになりますが、figure of speech は rhetoric(修辞学)という意味です。そうすると話は違ってきます。ともかく、丸谷は「巧みな言い方」について論じています。

 

第6章 言葉の綾

 詩は言葉で書くとマラルメは教えたそうである。同様に文章は言葉で書く。言葉だ。言葉。言葉。故に文章に優れた人はみな語彙が豊富で、語感が鋭く、言葉に対する愛着が深い。たとえば清少納言。「枕草子」の有名なものづくしは、視点を変えて言えば名詞づくしということになる。

 文章は言葉で書くものであるから、文学というものはもともと言葉の遊びであって、いや文学に限らず実用的な文章であってさえ、そのような局面は拭い去ることは困難なのである。文章が人間の文化的活動の一つである以上、文化が基本的に持っている遊戯性と縁を切ることはできない。

 谷崎潤一郎は「文章読本」で言葉の選び方として「異をたてようとするな」と述べているが、もっともな教訓だと思う。谷崎は明治維新以前からあるのが「古語」でそれ以後にできたのが「新語」としているが、古風な言葉と今風な言葉と言う方が良いと思う。

 谷崎には「陰影礼讃」という短編があるが、日本家屋の美を克明に記述した文章で、これほど優れた文章は例がない。しかし、その文章にでてくるような語彙の選択ができるのは一つにはやはり主題のせいということもある。

第7章 言葉のゆかり

 今風の言葉はなるべく避けた方がよいと谷崎が教えたのは、前述のように伝達の目的にかなうからである。さらに言えば、実質的に大事だっただけではなく、表向きの理由として押し立てられた気配もある。表向きではない理由というのは古風な言葉は品格があり、感じがよいからである。

 言葉はもともと歴史的な存在であり、過去によって刻印を打たれることで始めて伝達が可能になる。しかるべき言葉を選ぶには、その語の由緒来歴から現代との関係に至るまでの総体をしっかりと感じ取っていなければならない。その感じ取る幅が広ければ語義に詳しいのであり、感じ取る度合いが深ければ語感が鋭いのである。

第8章 イメージと論理  

 女流作家中里恒子が同じく作家の宇野千代に宛てた手紙を引用する。

本文省略
追伸 12月29日
今日はつめたい雨、部屋を暖かくして、ストーヴのそばで、私は、黒豆を煮る番をしております、いい匂いがしています。
                 中略
                          どうぞよいお年を。

この手紙の返事
中里さん。
お手紙、31日の午後拝受しました。暮れも正月もない、と言うのが、老人になってからの習慣ですが、しかし、何となく正月をするのは愉しいことです。あなたの煮豆はどんな味かしら、などと思いながら、私も煮豆を煮ていたのです。夕方までに、あらかた煮物を終わって重箱に詰め、いまちょっと一休みというところなのです。
中略
                             さよなら
                                千代

  この引用は気心がよく通じた2人の作家の手紙のやりとりであるが、文章はイメージが大事だということを述べたいために引用したものである。庭のくちなしであれ、ストーヴで煮る煮豆であれ、具体的なものを差し出されると、抽象語や観念語よりも、あるいは例えば、「元気で暮らしております」などの概括的な言い方よりずっと頭に入りやすい。親しみが持てる。

第9章 文体とレトリック

  文体という言葉にみんなが色々な意味を勝手に付与したために、収拾がつかなくなっているのは周知のことである。混乱を整理するためにあえて言うのだが、この言葉の中心にあるものは文章を書くにあたっての気取り方である。少し気取って書くこと、あるいは、気取らないふりをして気取るということこそは文体の核心にほかならない。文体にとって取りあえず必要なのは装うという心意気、次に大事なのは装う力なのだ。

  新進作家で文体を認めがたいのは、彼の文章の気取り方の格好がついていないからで、文豪と言われる人の文体が嘆賞に価するとすれば、それは気取り方、装い方が途方もなく趣味が良いからである。

  装うということからごく自然に導き出される概念であるが、これは礼という言葉で言い直してもよいかもしれない。窮屈に考えることはない。羽織袴の礼もあれば、着流しの礼、いやステテコ一つの礼だってないわけではない。高級な精神の闊達な表現があるであろう。

 

(この後、大岡昇平の「野火」、シェークスピアの数々の作品を引用して比喩、隠喩、暗喩などのレトリックの説明がなされていますが、専門的に過ぎますので省略します。引用文についての丸谷の分析力は並々ならないものがあり、英文学についても造詣が深いことがよく分かります。正直に言えば、そこまではちょっとという感じです。)