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2017.10.10

文章読本(その2)丸谷才一(3)

 前回に引き続き、丸谷才一の文章論を整理して紹介します。

第10章 結構と脈絡

 我々はとかく一編の文章を線になぞらえがちである。一本の糸、あるいは紐。このことは、緒論・本論・結論という3分法の名づけ方、殊に緒論の緒の字を見ればよく納得がいく。しかし、この分け方は害が多い。

 第1に、文章のはじめに必ず緒論(ないし序論)を書けと言われると、たいていの人は意味のない前置きをつけてしまうようだ。つまらぬ言い訳や愚痴をこぼしてしまう。そういう緒論は不要である。

 1904年(明治37年)に起こった日露戦争の開戦直後、幸徳秋水が平民新聞に掲げた「兵士を送る」は情理兼ね備わると思われるほどの名文であるが、それは、何はさておき、いきなり本題に入ったことである。ラテン語の「イン・メディアス・レス」(核心から)を思わせる語り口だからである。ドストエフスキーの「罪と罰」でもペテルブルグの貧しい大学生が(自分の犯罪理論実現の)下検分のため金貸しの老婆を訪ねるところから長編の物語が始まる。物語だけではなく、議論文の場合でも有効適切な心得である。

 緒論が言い訳であれば、結論も取ってつけたような粗末なものとなり、本論までやせてしまう。話の要点を絞ってしまうせいか、これが本論だ、これが本論だと自分に言い聞かせながら書くために、ものの見方、考え方が狭くなって厚みのない単純な論旨になりがちなのである。

 漢文の場合を見てもよく分かるように、文章の構成というのは究極のところ論理がしっかりしていることが必要である。話のつじつまが合わず、話が前に前に進まなければ、緒論・本論・結論も、起承転結も単なる形式になってしまう。パラグラフ単位でいく方が、書くべき内容のひとかたまりがとらえやすく、その分だけ論理的に書けるというところが大事なのだ。

 それは文章を一本の線としてとらえるのをやめ、一つの平面だと考えることである。一枚の織物としての文章を書こうと心がけることである。

第11章 目と耳と頭に訴える

 いきなりだが、谷崎の「盲目物語」の一節を引用する。(引用省略) 普通なら漢字を当てるところを平仮名を多く使ったせいで、恐ろしいくらい効果をあげている。すらすら読むわけにはいかないために、盲人の訥々(とつとつ)たる語り口を直接聞いているような気がしてくる。谷崎の作品にはこのような例がいくつかある。

 元来、文章というものは音読するものである。黙読の場合も頭の中では音として読んでいる。音であれば調子がある。文章の調子にとっては個人の生理や体質よりもずっと大切なものがある。それは人間の思考という普遍的なもので、その普遍的なものに合致するように言葉をつらねるからこそ、文章は他人に理解してもらえ、つまり伝達が可能になるのである。流暢さもゴツゴツも、単なる音の効果にすぎないならば何の意味もない。そうではなく、人間の精神のリズム、思考のパターン、感受性の構造との関連で生きていればこそ、それは読者の耳を通して頭へと作用することが可能になるのである。

第12章 現代文の条件  

 現代文の条件として色々な問題点があるが、例えば単数と複数の問題などは、英語のように一々区別しなくとも、文意で解決できる。

 しかし、文章と論理ということに注目するとき、単数・複数の別などよりずっと根本的なものとして語彙の問題がある。西洋の場合、いちばん羨ましいのは、思想の言語と生活の言語とがなだらかに結びついていて断絶がないことである。英語で言えば、ideaは「心に浮かぶこと」や「思いつき」という低い次元から、「認識」や「観念」や「思想」という高い次元に至るまで、ごく自然につづいている包括的な言葉である。我々の「観念」は、ただ高級な思索やもったいぶった演説のときだけ用いられるむずかしい言葉である。我々が使う四角四面な言葉は、みな生活感覚の裏打ちを欠いている。これでは文章が現実から遊離しがちなのは当たり前で、こうなれば、その文章が述べる理屈が空転し、論理性を失いがちなのは、ほとんど必然の結果であろう。我々がものを考えることができるのは、常に、現実的な生活と関連のある場所においてなのである。そして困ったことに、いつも「思いつき」や「心に浮かぶこと」で間に合わせるわけにはいかないし、第一それでは文章がしまらなくなる。だからと言って、片仮名で「アイディア」とやったのでは、いっそう生活感覚が乏しくなるだけでなく、もともと別の体系の語であるから、その言葉自体が文章全体から浮いてしまう。これを解決するには何か一つの外国語を徹底的に勉強することである。手塚富雄、中野好夫、渡辺一夫の翻訳は非常に優れていて、それらを読めば、外国語に堪能になれば、いかに優れた日本語の文章が書けるようになるかがよく分かる。

 最後に一つ難問が控えている。社会全体、文明全体が文章に関心をもつのはよいとしても、その際、具体的に言えばどんなふうに、その新しい文章の型を探っていくかということである。つまり、何について書くかである。この問いについて答えるに当たっては、石川淳「無法書話」の一節が参考になる。

 「さて、これで習字の稽古はとっくに終了、用筆の呼吸も一応のみこんだことにして、さきに飛びましょう。今、筆のほかに紙、墨、硯という道具をとりそろえて、そこに水があれば、たれでもすぐさま字が書けると言えたものかどうか。こどものいたずらがきではない。いっぱしのおとなが自分の字をかいて見せようという瀬戸際です。・・・以下省略」

 石川がここで語っているのは、書くに価する内容がなければ字を書いてはいけないということである。この教訓は、文章においてさらによく当てはまるだろう。書くべきこと、語るべきことがあるとき、言葉は力強く流れるであろう。これこそは人間の精神と文章との極めて自然な関係にほかならない。