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2017.11.25

文章読本(その3)井上ひさし(2)

  前回、井上ひさし著「自家製 文章読本」の紹介を始めました。お断りしたように、井上氏は個性の強い文筆家でしばしば理解に困難を来すことがあります。読書量も多く、文中に引用が多く出てきます。つまり、こういう人がこう述べているという説明です。井上氏の意見はどうかということを読み取るには反復して読む以外の方法はないようです。前回と同じように井上氏の「文章読本」の目次にしたがって要約して説明します。

文間(ぶんかん)の問題

 文章はnを整数とすると、n個の文とn-1個の文間とで出来上がっている。文間は文と同じくらい大事な文章要素である。それほどの重大事をこれまで文章読本や文章術入門書はなぜ無視してきたのか。

 判断の言語的表現である文がいくつも重なりあって進行していくのが、我々の談話であり、文章なのであるが、それらの文と文との関係の仕方―これをまず観察することから文体の研究は始めなければならない。この観察を文体文法という。「これをしてから、それをする。」のような場合、下線部は接続詞ではなく、接続語ととなえた方が適切である。実際はこうした接続語を愛用する人としない人がある。芥川龍之介は愛用する人で「武蔵野夫人」を書いた大岡昇平は愛用しない人である。

 名言の中には接続言が重要な働きをしていることが多い。デカルトの「我思う、故に我あり」(Je pense, donc je suis.)もパスカルの「人間は自然界の最も弱い一本の葦にすぎない、しかしそれは考える葦である」(L’homme n’est qu’un roseau le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant.)も、思考の過程を接続言で支えている。ハムレットの名句「生きるか死ぬか、それが疑問だ」(To be or not to be : that is the question.)の下線部は接続言(詞)で、コロンはandとbut両方の意味をもつ。

オノマトペ  

 擬声語とか擬態語のことを言います。前章に続いて井上の見解を要約して紹介します。

 三島はオノマトペについて、「私が森鷗外に学んだのは擬音詞(オノマトペ)を節約することです。擬音詞は日常会話を生き生きとさせ、それに表現力を与えますが、同時に表現を類型化し卑俗にします。鷗外はこのような擬音詞の効果を嫌って・・・」と述べているが、半分は間違っている。鷗外にはオノマトペを多用した作品もある。例えば小説「雁」の一部には、末造はつと席を起った。ふっくりした丸顔の・・・。さっぱりとした銀杏返しに結って、・・・。体も前よりすらりとしている。など下線を施した部分がオノマトペである。しかし、鷗外の後期の作品にはオノマトペが出てこない。日本文学の中では万葉集の和歌、竹取物語、伊勢物語、枕草子などにオノマトペが出てくるし、古典と言われる短歌や俳句にもオノマトペは出てくる。

  何故オノマトペにこだわるかというと、それは日本語の動詞が弱いからである。そのまま用いると概念的になる。まだるっこい。的確さを欠く動詞にはオノマトペという支えが要る。

 オノマトペとは違うが日本語には複合動詞が多い。ドイツ語にも熟語動詞のようなKennen lernen(知り合いになる)といった式の複合語がある。しかし、二つの動詞は最後まで切り離されたままで、形態としては二語並列である。日本語の場合、「思い出す」は一語のように見えるが、これは思うの連用形「思い」+「出す」という構造をもった複合動詞である。日本語の複合動詞は形態としては一語然として見える。ここが日本語複合動詞の特徴である。

 ギリシャ語にも、形態的には一語然として見える複合動詞があるというが、比較的限られた動詞の用法であって、日本語のように自由に複合動詞を作れるパターンとは異なっている。悩みの種の英語にはset about(・・・にとりかかる)、set down(下に置く、乗客をおろす、書き留める)、set off(発射する、出発する)、set to(本気ではじめる)、set up(組み立てる)といった複合語があるが、造語パターンは(動詞+前置詞・副詞)であって、決して複合動詞ではない。ドイツ語やロシア語に多いのは、接頭辞をかぶせて動詞の意味を限定する造語法であるが、これまた動詞と動詞の複合語ではない。となると一体なぜ日本語には「動詞連用形+動詞」の構造を持つ渾然たる複合動詞が多いのか。

 どんな言語にも大なり小なりみられる現象であるが、とりわけ日本語の動詞は、そのまま単独で用いると、意味を訴える力が弱い。単独で用いたのでは意味が漠然としている。具体性に欠ける。現実と烈しく斬り結ぼうとしない。生き生きしない。血が通わない。「戸外に風が吹いていた」ではなく「風が吹き暴れていた」の方が強い。

 なぜ日本語の動詞は単独で用いられると弱いのか。詳説すると長くなるので簡潔に述べるが、日本語の構文では動詞が文末に来るせいである。

 オノマトペは詩歌では重要な武器である。芭蕉の
    にょきにょきと帆柱さむき入江哉
という発句においてはオノマトペがすべてである。