創始者ブログ FOUNDER'S BLOG

2018.05.10

本学の教育

 前回は教養教育について述べ、阿部謹也氏の“「教養」とは何か”という著書の紹介も行いました。教養について議論を深めるためには世間とは何かを深く考えなければならないことを学び取りました。私たちはいつも世間を意識して生活しています。このことが社会的であろうと個人的であろうと教養と結びついているのであるから、この関係をもっと勉強して、このブログで後日述べることにします。世間を学ぼうとすると歴史的な観点から万葉集、新古今和歌集、徒然草などにまでさかのぼって勉強しなければならないようです。

 ところで最近、日本経済新聞に注目すべき記事がありましたので、そのことに関連した本学の教育について述べることにします。

 先ず、5月3日付第1面の下にある「春秋」欄です。幕末、吉田松陰の松下村塾に2人の若者が入門した時に「謹んでご教授をお願いいたします」と言われた松陰は、「教え授けることはできません。君らとともに学んでいきましょう」と答えたそうです。人はみな対等であるという松陰の考えが表れた逸話です。この逸話はすべて「春秋」欄の引き写しですが、松陰が何よりも考える力を求めたことがよく分かります。つまり、先生の教えを「お説ご尤も」と聞く学徒は認めなかったのでしょう。現代風にいえば、講義を黙って聞き、ノートをとって期末に試験を受けて単位を取得するという従来型の大学教育を認めていないということでしょう。

 本学の国際教養学部は創設時から教師が学生とともに英語で学ぶという方針を貫いてきました。秀才だけを集めて教育できる大学ではないのに無謀なやり方だと揶揄されたことを苦々しく思い出します。また、宮崎方言でいう「ぼっけ」な考えだとも言われました。しかし、実際のところ着実に成功を収めています。例えばその証拠として、最近「卒業生だより」をこのホームページに寄せたカナダとアメリカに住む2人の卒業生の便りを読むと、私たちが実践した教育が実っていることがよく分かります。この人たちは着実に、そして堅実に国際社会を支えています。一人は病を乗り越えて平和な社会を築きたいと述べ、もう一人は辛かったことは何も語らず、感謝の心をもって自閉症で苦しむ外国の若い人たちを援ける仕事に打ち込んでいます。

 たとえ小さくとも国際社会の人類の福祉を考えて実践する人たちが本学の卒業生の中に育っています。クリティカル・シンキングに基づくアクティブ・ラーニングが着実に実を結んでいることに自信を持って良いと思いました。

 日本の大学ではアクティブ・ラーニングは騒がれているほどには実行されていないと聞きます。英語だけでの授業も喧伝されるほどには実践されていないのが実情のようです。実践するのには多大の困難があるからです。口で言うほど容易いことではないのです。

 もう一つ気になるのは5月4日付第1面の「スローな教育改革」という記事です。生まれつき茶色っぽい髪の女子高校生が何度も教師に迫られて頭髪を黒染めしようとしたが、染髪剤の影響で頭皮にかゆみや痛みが出た。親が抗議したが、教師は「ルールだから」と繰り返したということです。本当にそんなことがあるのかと信じられないような気がしますが、画一性を求める日本社会では起こりそうな気がしないでもありません。規律や画一性を重視し、世間が許さないという判断基準を体制側で考えて、出る杭を伸ばすよりも一定の枠にはめようとする規範があるようにも思えます。画一性が礼節にかなっていると誤解している人たちもまだ沢山います。

 画一的で詰込み型の教育が均質な労働力を大量供給して高度成長を支えてきたのは事実です。しかし、この記事によると、経済協力開発機構(OECD)加盟国中、高校世代の数学的・科学的リテラシーで日本は首位に立つが、基礎学力の高さが必ずしも生産性に結びついていないとのことです。スイス、米国、フィンランド、オランダなどは日本より学力は劣るが、生産性は高いとのことです。生産性は1人当たりのGDPで表わしています。イノベーション力も日本は劣り、スイスや米国が上位を占めているとのことです。大学では入学時から欧米流のリベラル・アーツを学び、自由闊達な議論ができる教育に替えていかねばならないと、この記事では力説されています。

 本学国際教養学部では開学時から英語で国際的リベラル・アーツをクリティカル・シンキングに基づくアクティブ・ラーニングを実践してきました。日本語や日本文化のことを決してないがしろにしてきたのではありません。学習はすべて比較文化という日本文化を基準に置いた学問的規範にしたがって行われています。言語教育を尊重しているのも本学の特質です。言語は知的活動の基本だからです。