創始者ブログ FOUNDER'S BLOG

2018.06.13

本学の教育(続き)

 本学の教育がリベラル・アーツ教育を核としていることを述べてきました。そのことを教養教育重視と表現しています。リベラル・アーツ教育と教養教育とは同じではないのですが、日本社会では教養という言葉の方が受け入れられ易いようです。教養は人間の基本的な人格に関わる意味をもち、リベラル・アーツはカリキュラムに属する意味合いが大きいと思います。しかし、教養教育は「きれいごと」を表している側面があり、具体性に欠ける面がありますので明快な定義が必要です。

 このブログのシリーズでは前々回と前回に歴史学者阿部謹也氏の著書を参考にして教養について述べてきました。その上で、教養について述べるには「世間」との関わりを考えねばならないことを述べました。今回も阿部謹也氏の著書「教養とは何か」講談社現代新書Y640を参考にして本学の教養教育のことを述べることにします。

 当然のことですが、教育機関は教育基本法・教育機関の設置基準・文部科学省の行政指導に沿って学校を運営し、教育活動を行いますが、各教育機関は、それぞれが建学の精神に基づいて人材育成を行います。ところが阿部氏は「教養とは何か」p10~11に「学校教育の中で教師たちが私たちに教えてくれたことは皆建前だけであった。個性的に生きなければならないこと。友情を大切にすること、人には親切にすること、正しいと思ったことは勇気をもって発言すること、正義は必ず最後には勝利を収めるのであるから確信をもって行動すること、自由こそ最も大切なものであることなどを教えてきた。これらはすべて正しいものであるが、このような行動をするために必要な知恵は教えられなかった」と学校教育を批判しています。つまり、一番大切なことを抜かして建前だけを教えてきたとの批判です。その一番大切なことは自分が「世間」に出たときに解るものであって、そのことを解っている人を大人というと述べています。

 続いて個人についても「長い間、我が国の個人の弱さについては議論があり、個人がもっと尊重されなければならないと言われるが、そのためのどうしたらよいかについては何も述べられていない。我が国において個人は長い間西欧的な個人である前に自分が属する人間関係である「世間」の一員であった。したがって何らかの会合において発言する際には個人として自分の意見を述べる前にまず自分の属する「世間」の利益に反しないことを確認しなければならない。」と述べています。

 阿部氏によれば、大切なことは「世間」が隠されていることで、人々は自分が「世間」に私的生活の足場をもっていることを隠して、あたかも建前の世界だけで生きているかのように振る舞っているということです。私自身も職業生活の中で自分自身が「個人」であることが意識の中から消え去って、いつも「世間」の意識の中で振る舞っていることがしばしばありました。おそらく多くの人が私と同様な職業生活をしていると思います。ところが、アメリカなどの外国で働くと、「個人」であることを不思議と強く意識する環境になります。

 つまり、日本社会で働いている場合は周囲の規範に従っておればよいという気楽さがある一方で、何か今までにないことを成し遂げようとすると、社会的には閉塞感を味わいます。自由な振る舞いはできないのです。世間の意識の中で振る舞うということは、例えば冠婚葬祭にそつなく付き合うことや、互酬関係(贈り物のやり取り)をきちんと守ることにはじまり、常に世間への体面を保つことです。もちろん、何も考えないか、何も感じない人たちも大勢いるということはあるでしょう。

 自由な振る舞いができないということは、自分に対する世間の評価を自分で忖度して、そこに拘束されているということではないでしょうか。

 話が小難しいことになりましたが、本題に戻って前にも紹介しましたように、阿部氏の「教養とは何か」p55に述べられた教養の定義にかかわる部分を抜粋して引用します。教養がある人とは多くの書物を読み、世の中をよく知り、様々な事柄について的確な判断ができる人としたいが、これでは個人の教養ということになるので、前にも引用したように、「自分が社会の中でどのような位置にあり、社会のために何ができるかを知っている状態、あるいはそれを知ろうと努力している状況」ということです。この定義は私が知る限り、著名な大学の学長も認める定義ですから、世間一般に受け入れられたものと考えてもよいのではないでしょうか。阿部氏も言っているように集団的教養です。

 さて、ここに定義された教養と我が大学の教育との関連です。本学国際教養学部の教育は、ここに定義された教養を身に付けるために具体化された教育と言えると思います。何故なら、教科は人文学、社会科学、自然科学のあらゆる分野を網羅し、これらをクリティカル・シンキング(批判的思考)に基づいて、英語によるアクティブ・ラーニングによって学ぶという開学以来の教育法に沿って教育が行われているからです。

 どのような教育もうたい文句だけでは実質が伴いません。本学の場合は英語で授業をするということだけで、否応なしにクリティカル・シンキングやアクティブ・ラーニングを実行せざるを得ない状況ができてしまいます。つまり、気取って言えば理想とする教育を実行せざるを得ないという誠に有難い状況です。教員の大半が英語を母語としているということもこの状況を推進します。

 阿部氏が指摘したように、教育では建前をとなえて事足れりという雰囲気があります。「頑張りましょう」「深く、広く学ぼう」と掛け声をかけるのは日常的です。具体性のないきれいごとを言うだけで済ませてしまうことはよくあることです。本学は現在、文部科学省が支援する大学教育再生加速プログラムに採択されたクリティカル・シンキングを可視化するアクティブ・ラーニングの推進に取り組んでいます。教職員が文字通り一体となったこの教育活動は建前だけではない本学の具体性に富んだ教育活動なのです。