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2018.09.12

英語教育改革(その2)

 前回述べたように、本年8月8日付日本経済新聞25面に立教大学名誉教授で英語教育研究で著名な鳥飼玖美子氏の著書「英語教育の危機」ちくま新書1298が、東大教授斎藤兆史氏の取材記事と一緒に取り上げられ、“大学生の英語力が低下、苦手の原因直視を”という見出しがつけられていました。鳥飼氏の当該著書の帯には“2020年、この国の英語教育はどうなる?” と惹句を記載して宣伝していますが、さらに、英語の授業で日本語が使用禁止!? センター試験廃止で、入試が民間試験に? 小学校で「英語」が始まっても、教えられる先生がいない! など刺激的な言葉が並んでいます。

 鳥飼氏は、まえがきに英語教育についての人々の思い込みが強固であることに対して大変失望していると述べています。

 曰く「グローバル時代だから英語を使えなければ」「でも日本人は、英語の読み書きは出来ても話せない」「文法訳読ばかりやっている学校が悪い」「だから、英語教育は会話中心に変えなければ」という信条を多くの人たちが共有していることに対する不満です。

 鳥飼氏の主張は、英語をコミュニケーションに使うということは、会話ができればよいというものではない。学校は文法訳読ではなく会話重視である。だからこそ読み書きの力が衰えて英語力が下がっている、とこちらがいくら説明しても、人々の岩盤のような思い込みは揺るがない。政界、財界、マスコミ、そして一般世論はビクともしないという危機的状況になっていると力説しているのです。

 そして、著書「英語教育の危機」の大半を費やして英語教育の現状はどうなっているかについて次のように述べています。

 「コミュニケーションに使える」英語教育への大変身、「英語は英語で」教えようという政策をとった結果、大学入学者の英語力が低下している。それなのに、今度は小学校英語の導入、民間英語試験を大学入試に導入するなどのグローバル人材育成政策をとって英語教育に危機をもたらしていると指摘しています。その歴史的経緯と理論的な根拠の説明は省略しますが、現状は鳥飼氏によると次のようです。

 まず英語は英語で教えようという動きに対して、高校の現場では当然だと擁護する意見がある一方、日本語で説明しても分からない生徒はどうやって教えればよいのかを嘆く声もあった。文科省は必要に応じて日本語を使うことを認めてはいるが、「英語を使って教える」方針は変えずに、DVDを制作するなどして熱心に研修会などを開いて方針の徹底を図っている。「英語で授業」するために英語教師も努力しているが、数年以上経過しても文科省が目指した成果は出ていないどころか、大学入学者の英語力が低下して、大学によっては新入生に対して入学後に英語の補習授業を行っているところもあるのが現状である。このような大学生の英語基礎力低下がどの程度一般的に認知されているか分からないが、TOEFLのスコアが相変わらず低いことが、「日本人は話せない」という固定観念と相まって、さらに二つの英語教育改革が決められたと述べています。一つは小学校での英語教育開始であり、もう一つは大学入試改革です。

 小学校英語の導入は、いくら中学校や高校での英語教育を改革しても成果が出ないという現実に直面して、早いうちから英語をやれば効果が出るだろうという発想で、それは世論であり、政界の主張であったと述べてあります。文科省は、小学生に対して教科として本格的な英語を教える先生をどうやって養成するのかという教員養成の問題にじっくり取り組む時間などがないようで、英語ができると思われる人たちに特別に免許を出し、小学校の免許は取得しているものの英語の免許がない小学校教員は、大学の教職課程で短期の研修を受ければ英語免許を取得したものとみなすなどの措置で切り抜けようとしているとも述べています。

 もう一つ、中学・高校の英語教育がうまくいかないのは大学入試があるからだという意見も根強くあるとのことです。「読む・書く・聞く・話す」という4技能が重要であり学習指導要領もそのようになっているのだから、大学入試は英語の4技能を測定すべきだとなったとの説明です。4技能を測定ということになると、いきなり民間試験を利用しようということになります。しかし、これには望ましくない問題があると鳥飼氏は言います。つまり、

  • 民間検定試験は目的が違う(学習指導要領に依拠していない)
  • 検定料の負担がある
  • 高校の英語教育は検定試験を目的とする受験勉強になる
  • 「話すこと」「やり取りinteraction」を誰が審査し測定するのか
  • 「コミュニケーション」は数値で測定できない

ということです。

 また大学で民間検定試験を利用すると、これにも問題があると鳥飼氏は言います。スーパーグローバル大学に採択になった大学ではTOEFLやTOEICの数値目標を掲げている大学が少なくない。つまり、これらの検定試験のスコアをあげることが目的化しているとのことです。スーパーグローバル大学に採択された大学は、文科省から提示された応募条件を満たすためにTOEFLやTOEICの(高い)数値目標を掲げている大学が少なくない(p153)。定員確保に必死の弱小大学・学部では、志願者を増やすには就職率を上げて成果を広報して受験生を集めざるをえず、そのための方策としてTOEFL・TOEICのスコアを上げること・・・(p155)とやや筋違いの批判が続いています。私は長い間、学長として大学教育に携わってきましたが、教育成果を評価するのにスコアを使うことは当然な教育的な行為だと思います。大学の教育現場ではスコアを指標の一つとして参考にしているのです。英語力を完全評価できる試験というものはありえないことですから、参考にするのは当然のことなのです。大学内でスコアをどのように評価するかは教員間で大いに議論されています。良いスコアが得られれば、一つの教育成果として宣伝するのは自然なことではないでしょうか。弱小大学と言われても、それは時勢のしからしめることですから、教育機関の矜持は夫々の大学がもっているのです。

 鳥飼氏の批判は次のように進みます。民間試験導入の大義名分は「4技能を測定するため」であるが、センター試験では読むことと聞くことの二技能しか測れなかったから改革するということで、話すことと書くことは大学に入学してから指導できることが不問に付されている。書く技能の測定と言っても英語的論理構成を重視するのか、文法的正確さをみるのか判断基準は難しいと思われる。複雑なのは「話すこと」「やり取り」をどう測定するのかにも問題がある。コミュニケーションといっても、何をもってコミュニケーションというのかが曖昧であると批判しています。

 鳥飼氏の英語教育改革批判はこのように続いていますが、最後の最後になって新しい提案をなさっています。この提案は我が宮崎国際大学が創設された時以来の英語教育法に酷似しています。紙幅の都合で鳥飼氏の新提案や本学の教育法については次回に述べることにします。