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2019.04.12

新渡戸稲造(7)

第8章 貯蓄

貯蓄の要素
 ある学者が文明とは精力の貯蓄と定義した。人類が文明化する以前は生活に余裕がなく貯蓄もなかった。文明の始まりは食物の貯蓄であったに違いない。Herbert Spencer(1820~1903イギリスの哲学・社会・倫理学者、Charles DarwinやAuguste Comteに影響を与えた独学の学者)が述べたように、知能の発展は時間と空間に適応するものである。知能が発達すればするほど、時間と空間に対する考えが長く、広くなるものである。元気を失わず、老後のことを考えるのは進歩した思想である。財を貪るのとは異なる。

 

先見の大差
 国家百年の大計というのは正しいことであるが、個人として来年のことを話すと鬼が笑うというのは間違っている。人生のことは消極的計画ではなく、今日あるごとく明日もあると信じて、積極の思想で計画・準備を進めたい。道歌(道徳・訓戒の意を分かり易く詠んだ短歌)に、「事足れば足るに任せて事足らず 足らで事足る身こそ安けれ」が実に意を得た歌のごとく信ずるものもいるが、この歌の意味どおりにすると貯蓄の実行は全くできなくなる。その日その日の生活を支えて行くだけを理想とすることになる。それよりも、足るより多くとり、足る以上に余りを得、これを明日のため、他人のために貯えるようにしたい。もちろん、濫用はよくないし、奢侈に流れてはならない。
 破廉恥的なケチは感心しないが、ケチにならない程度で貯蓄の心がけのあるものは頭脳が綿密で、後日必ず有益な人材になる。大望を懐き、ケチの非難を甘んじて受けるものは偉い人である。

 

体力の貯蓄
 日本人の中には今日あって明日はないという山桜を理想として遠い将来のことを想うことを卑しいとする気風がある。宵越しの金はもたぬと言えば、いかにも元気があり、気概のある快男児と褒める。金のことはたいしたことではないとしても、体力をみすみす消耗して精力を失い、病気をするのは大いに考えるべきである。「一日に十里の道を行くよりも 十日に十里行くぞたのしき」の方がよい。社会のためとか、交際のためとか、「これも浮世の習い」として体調が悪いのに無理なことをするなどは害を招く愚かな行為である。体力を消耗する虚栄心ということもある。虚栄心が強いのと度胸があることとは反比例している。

 

知識の貯蓄
 なまじっか腕力があると馬鹿なことをしがちであるが、腕力に限らず小利口な人、小学問がある人は比較的虚栄心が強く、とかくこれを鼻の端に出したがる。少し学問をすると、すぐにこれを出したくなるのが多数の通弊である。禅で悟道に入った人は禅を行ったらしい顔もせず、その言うことは平々淡々として、普通の人と変わったところがない。しかし目のある人がこれを見、耳ある人がこれを聞くと、その眼つきや音声がどことなく普通の人とは違う。このようになるのは、必ずしも禅より得た悟道に限らない。

 

貯蓄した知識は出す機会が肝要
 昔のことわざに「能ある鷹は爪を隠す」とある。智力のある者は、いたずらにこれを外に出すことがない。これを貯蓄し保存し、折を見てこれを利用する。ある人の言に、「金言とは機会を逸せずして発したる言なり」とある。
 しかし知識の貯蓄のみで、世の中を渡るときは、はなはだしい寂しさを感じる。怜悧な人は談話の相手がない。すべての人が馬鹿らしく、共に語るに足らぬように見え、不愉快に世を渡る者が多い。知識のみの人は人に対して威張り、傲慢である。だから、知識の貯蓄よりも徳の貯蓄が必要である。

 

徳の貯蓄
 善を積むことはいくらでも積める。しかしちょっとでも油断すると、とかく消えやすく後戻りしやすい。天性実に美しく生まれた人がいる。嫉妬羨望の念なく、ほとんど悪の観念なきかと思われる人がいる。しかしこんな人は極めて稀だ。十人中八、九人はこれに反し修養を積まなければ善に進まれぬものである。善悪の両性を有するものは、たゆまず失望せず徳を貯えるようにせよ。
 徳を積むものは、富とか知識とかを積むもののごとく、この世に栄華を極めることの保証はできない。人から偉いといわれるかどうかも分からない。給料も多くもらえるかどうかも分からない。徳は知識のように売ることはできない。知識は病気のために忘れることがある。人に妬まれたり、羨ましがられたりすることもある。しかし徳の人は喪失する憂いもなく、人に妬まれることもない。もしあっても、かかる妬みは永続しない。むしろ妬む人を教化する力がある。雨が降っても風が吹いても、胸中はいつも喜びにあふれ快楽がある。そして積徳は誰にでも、いつでもできることであることを強調しておく。
 境遇に応ずる力は、各自に出すことができるにかかわらず、人はややもすると自分の力を出すことを怠りながら、自分の目的が達せられない理由を自分以外の事情に帰する傾向がある。辛いことがあれば辛いながらもその中から他人の得られない経験を得る。道は近きにあり、近いというのは各自の心の中にあるということである。