創始者ブログ FOUNDER'S BLOG

2019.04.16

新渡戸稲造(8)

第9章 余が実験せる読書法

多読の利害
 私は子供のころは活発にチョコチョコしていたので、書物など読めそうもなかった。15歳のとき、北海道に行って(札幌農学校―北海道大学農学部の前身)から、非常な読書好きになり、毎日読書に耽っていた。学校の図書館にある書物をすべて読んでしまおうという無謀な野心も起こした。すべてとはいうが、科学上のものではない。歴史、地理、伝記、政治、経済などに関したものである。手当たり次第に読破したが、意味をひと通り解するまでで、少しの考えもなく、目的もなく読んだに過ぎない。
 多読の結果、目が悪くなって眼鏡なしに書物を読むことができなくなった。乱読したので、頭脳が粗雑に流れて、緻密さがなくなった。種々の説を見たので、自分の定説がなくなった。多読は多くの害をなしたが、ただ一つだけ利益になったのは書物を早く読めるようになったことである。
 自分の経験から割り出して、青年学生に多読の利益ある所だけをとって、害のある所を去るように勧めたい。それは標準とする最良の書物を反復して精読し、その他の書物はこの書物の参考、あるいは補助として読む。つまり、最良と思う書物の内容を全面的に頭に入れて、他の書物から得た知識を補足の用に供するのである。
 新刊書をどう読むかという問題がある。次々に新しい本が出版されるが、到底読み切れるものではないので、一通り読んで、これはというところに付箋をつけておいて、そこだけ後できちんと読むようにしておけばよい。
 一冊の本を通読するときは、一章ごとにその大意を知るように努めねばならない。最後に書物を伏せて、この書は何のために書かれたものであるか、それをじっと考えねばならない。 
 概して言えば日本人は読書量が少ない。学生は必要なものを読む者もいるが、それでも少ない。一般人に至ってはほとんど書物を読まない。大学では先生の講義を筆記し、それをよく読めば、及第点が貰える。(ちなみに宮崎国際大学ではこのようなことはありません。図書館の調査によると、学生はよく本を借り出しています。読まなければ教科の単位を取得することはできない仕組みになっています。)
 この他に、親しい学友間で読書会を開くとか、家庭内でテーマを決めて各自が調べ、それを話し合うというようなことをするとよい。例えば「短気は損気」などというのは、調べて話し合えば修養にもなる。家族で文学書を読むのもよい。耳学問も大切である。このようなことをしたとて、大して効果があるまいと排斥されるかもしれないが、人間のすることは、一から十まで有益な結果を挙げることは到底望まれない。捨て石も打たねばならない。毎日行っていることの中で、一つでも有益なことがあればよいではないか。一足飛びに高みには登れないものである。

 

第10章 逆境にあるときの心得

逆境とは何か
 世の中には順境にあって得意になり、人々はこれを褒め、その幸福を羨むが、当人に尋ねると必ずしもそうではない。天下に名をなしている人の胸中を察すれば、辛い苦しいことが多く、外部より察せられないことがあるであろう。喬木風多し(高い木には風がよくあたる)という諺のように、周りには嫉妬が多く、その行動に対して常に非難があり、倒そうとする人がたくさんいる。何かをしようとすると、必ず意のごとくにはならないものである。
 逆境には二種類ある。天が授けるものと、自分が招くものであるが、両者が入れ混じったものもある。しかし、二種類の中では、自ら作る方がはるかに多い。自分がしたことでも不首尾に終わると、これを他人になすりつけたがる。
 想像より描き出した逆境というのもある。すなわち、自分は不当に低く評価されているという思いなどである。人間は卑怯なものである。自分が悪かったと知ったならば、なぜ自ら罪を負わぬのであろうか。なぜ自ら改めないのであろうか。社会を恨む人が多いのを見て、はなはだ遺憾に思う。
 古来広く言い伝えられている「人間万事塞翁が馬」という話がある。また、「禍福はあざなえる縄の如し」という言葉もある。いずれも何が福で何が不運かはわからないという意味である。
 注意したいのは逆境に陥った人は、その精神上に種々の影響を受けることである。これは最も注意しなければならないことである。ヤケになるのは短慮の人に多い。逆境に陥った人は「さて、この先は」と考えるとよい。
 また、社会は決して無情ではない。逆境にある人はよく「世は無情である。倒れかかった人を、みんなの力で倒して踏みにじる」という。「世は無情」というのは、決して真理の全面を表してはいない。それは真理の4割で、6割はやはり友情の世であると信ず。ゆえに逆境に陥りながらも、なおかつ全力を振るって努力するものは、早晩逆境より浮かび出る。
 逆境にある人は、人の善を見るとただ一意にこれを羨み、自分は努力しないで、その人のようになりたいと思うものである。羨むのは他人のよきことを見て、そのようになることを望み、思うことである。英語のenvyは語源がvisionであって、見るというのと同意であり、つまるところ偏見である。羨みの情は心が狭いから起こることで、これを除くには心をのびのびとさせ、人に及ぼす善は、自分にもまた善であることを思い知るように努めるが良い。
 今の世界は共同生活という観点からみると原始時代である。Solidarity(一致協働)に乏しい。共に喜び、共に悲しむという気持ちが足りない。逆境に陥ると他を恨みやすい。前に述べたように自分ひとりの失敗のために逆境に陥ったことでも、その理由を自分以外の人に求めがちである。また逆境を過大視するようなこともある。
 逆境を善用すれば、相手の短所を許すこともできれば、自分の短所を除く手段ともなり、勇気を養うこともできると思う。キリストはその生涯で苦の絶頂に達したのは、実に十字架上の人になったときである。それに耐えたからキリスト教は栄えたのである。