創始者ブログ FOUNDER'S BLOG

2019.04.23

新渡戸稲造(9)

第11章 順境にあるときの心得
順境とはいかなることか
 順境とは自分の欲するままに、事が進行する場合をいうと思う。つまり自分と境遇の調和が、よく整ったときをいうのである。このような経験は誰にでもあると思う。ことわざに「犬も歩けば棒にあたる」という。英語でもEvery dog has its day.(いかなる犬にも、その犬の日がある。つまり、どんな犬にも得意になる、または幸せになるような日があるという意味)。人と生まれて秋に会わぬ人はないというが、春に会わない人もいない。
 順境は前述のように、自分と周囲との関係であるから、周囲は変えられなくても自分の立場を変えることによって、逆境を順境に変えることができる。
順境の人の警戒すべき危険
 ・傲慢になりやすい
 ・職業を怠りやすい
 ・恩を忘れやすい
 ・不平家になりやすい
 ・調子に乗りやすい
家康公の遺訓
 徳川家康公の遺訓は世に広く伝わり、英語にも翻訳されている。その全文をここに書く。
「人の一生は重荷を負うて遠き道をゆくが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。いかりは敵と思え。勝つことばかり知って、負くる事を知らざれば、害その身に至る。おのれを責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」
 この遺訓は誠に良く考えて書かれている。しかし、若干消極的な感じがすると言った人がいた。言外に順境を善用せよという意味が含まれていると思う。
 家康公も順境に達しただけにては、決して事足れりとはしなかった。順境においては義務があることも決して忘れることはなかった。順境に達せぬものより見れば、順境にある人は我が儘勝手ができるように思われるが、脚に閑なき水鳥のたとえのように、寸暇の閑なく働いていなければならない。地位や名誉を得れば得るほど責任が重くなる。

第12章 世渡りの標準
人間界の害草
 田畑にはびこる雑草のことを害草と呼ぶ。それは生茂すべきではないところに生茂するから害草と称するのである。稲も蓮の中に生育すれば害草である。人も存在すべきではないところにおれば、その人は害物となる。人は自分のいる社会に益となるように勤めねばならないが、その社会が普通であるか、道徳が低下しているかによっては、その対処を熟考して決めねばならない。一概には決められないが、世の中には破壊すべきものと、保存して差し支えないものが混在している。主義が一致しないからと言って、他を顧みず、自分だけを潔とすることは決して最高の思想とは思えない。
処世上の根本動機
 社会の事物には常に善悪の両面がある。ゆえに人は常に現在の境遇に対し、悪いところは改め、よいところは少しずつでも伸ばしていく心がけが大切である。しかし、これを行うには根本的な動機を確定しておかねばならない。確定していなければ、目前に問題が起こる毎に、グラグラと動揺してしまう。確然とした志を立てなければならない。人として生まれた以上、自分の境遇を善用し、少しでも善に進みたい。人にも勧めたいのが、確然とした良い動機である。常にこれを忘れず、これを標準として行動すればよい。

第13章 道
人間の歩む道
 よく注意して人間の道を一歩も誤らないように行けば、必ずうまく目的地に到達するであろう。目的地というのは何であるかはわからないが、例えてみると門のようなものである。
 道は一つだという説もあれば、二つだという説もある。仁と不仁の二つの道であるという説もあるし、単線と複線という説もある。どの道を行けばよいかの判断がつかないことを煩悶という。
 道について、まず頭に浮かぶのは遠近長短である。家康公の遺訓に「人の一生は重き荷を負うて遠き道をゆくが如し」とある。道は遠きものらしい。ふつう長短は距離で表わすが、時間で表わすこともある。どこそこまで何時間というような表現である。
 人の歩む道は広いか狭いかという問題もある。幅の広い道も交通が盛んな道であれば、個人が歩む道は狭い。立派な道は必ずしも広いだけとは言えない。キリストの言に「我が道は狭し」とある。用心して我が道を行かなければ、外道に陥るおそれがある。
 道は単純で実用にさえなればよいという道もあり、装飾して行く人の注意を惹きつけるようにした道、つまり美しい街路樹の並木や記念碑があるような道である。面白そうだという道もあり、できれば避けて通りたいと思うような道もある。道を拓いた人の考え、道を弘めた人の考えによって景観に違いが現れる。
 道には種類がある。公道もあれば私道もある。軌道(有料道路)というのもある。高尚なものは、世間の人が多く歩んでいる上にあるもので、自己を修養した者が行くものである。誰の歌であったか思い出せないが、
 武蔵野にあちらこちらに道あれど
           我が行く道は神のまさみち
この神のまさみちを歩む人でなければ、少しの逆境に陥るとただちに狼狽してしまう。
 また道は天然自然にはない。人が道を造るのだということを銘記しておきたい。しかし、世の中には高い道と低い道がある。世を渡るということは、すこぶる漠然とした意味に用いられるが、自分以外の多数の人と共同に生存するという意味であろう。人物の評価は、評価する人によって様々であるが、はっきりしていることは、人によって高いところを歩む人と低いところを歩む人がいるということである。職業を営みつつ世を渡るにつけて心得なければならないのは、自分の職業以上のところに考えを置き、この大きなところから割り出して世渡りしなければならないということと思う。
 この章の終わりに至道無難禅師(江戸時代初期の臨済宗の僧侶)の道歌を記す。
 道ということばに迷うことなかれ
           あさゆうおのがなすわざと知れ